2018年3月1日木曜日

スカートの謎

エロの倫理学【1】 

スカートの謎 

これはスカート、というより南洋の先住民というか現住民の腰ミノを想起させる。意外にそんなところにヒントがあるかも?    (Amazonの商品カタログより)


 よく子どもの頃、スカートめくりと称して女子生徒のスカートをめくったものである。大抵はその下に短パンやブルマー等を着用して、彼女たちは有事に備えていたが、短パンだろうがなんだろうがめくった日には、彼女たちは予定調和的に叫び声を挙げてくれた。つまりはパンツが見たかった、というよりも女子生徒を叫ばせたかったのか。 
 しかし、かくのごとき平和な時代はおよそ小学校の五年生ぐらいまでで終わりを告げ、小六になると流石にこれは微妙な行為となり*、当然のことながら、中学に上がるともうこれは危険な、というよりも犯罪の香りが漂ってくる仕業と相成った。 

*つまり相手によっては不自然なくらい空気が重くなる。当然である。 

 これは無論、われわれ男子の側はなにも変わってないが、女子の方が「勝手に」第二次性徴を迎えることによる。 

 しかしながら、わたしが論じたいのは「スカートめくりの文化史」ではなく、「スカートそのものの謎」なのである。 
  恐らく女性がスカートで、男性がズボンという図式は近代に入って形成されたものに違いないが、問題は「性的に無防備」な状態におかれるスカートをなぜ女性がかくも唯々諾々と受け入れ続けているのか、という問題である。 
 先の事例に続けて書くなら、高校生ぐらいになるとスカートめくりが根絶されることに気をよくして、オウヴァー・パンツを穿かなくなるのか、全校集会で体育館に集まって体操座りをすると、無論下着のパンツが見えてしまう。あるいは駅の階段やエスカレイターなどで盗撮事件が起きるが、しかしながら、あんな短いスカートを穿いていたら、それはまず見えてしまうではないか。当然のことながら結果的に見えてしまうのと、意図して写真に納めようとすることは全く違う。全く違うが、この世にスカートがなかったら、つまり女性もズボンを着用することになっていれば、少なくとも先の問題は生じない、はずだ。 
 これに関しては先行の研究*があると容易に想像できるが、不勉強の故、このまま書き続ける。 

*スカートについて社会学的に考察した研究は残念ながらヒットしなかった。それ以外は本稿末尾を参照。 

  これはいわゆる密着型のブルマーと相似形をなしていて、学校教育の場における「制服」という強制装置が働いたためか、と思ったが、日本ではそういう面も否定できぬが、そもそも西欧においてはどうなのか。 

 つまり女性(というシステム)はスカートを穿くことによって、実は「見せたい」「見てほしい」というメタ・メッセイジを男性(というシステム)に送っているのではないか、と勘ぐってしまうのである。 
 これはもしかすると単なる社会的なシステムの問題ではなくて、生物的な本能の問題なのかもしれぬ。当然のことながら生物にとって種の保存こそが最大のテーマなのだから、彼女たちはオスを適切に誘うという、生物として当然のことをしているだけなのだ。 
 したがって、スカートがパンツすれすれまで短くなるのは理の当然の結果と言えるのだろうか。 


【参考文献】 
①上野千鶴子『セクシィ・ギャルの大研究』1982年・カッパサイエンス(光文社)/2009年・岩波現代文庫。 
②上野千鶴子『スカートの下の劇場――ひとはどうしてパンティにこだわるのか』1989年・河出書房新社/1992年・河出文庫。 
③井上章一『パンツが見える――羞恥心の現代史』2002年・朝日選書。 
④山本雄二『ブルマーの謎――〈女子の身体〉と戦後日本』2016年・青弓社。  
⑤ミシェル・フーコー『性の歴史』全3巻・1976年~1984年/田村俶訳・1986年~1987年・新潮社。  

  
【今後の予定】 

「パンツの謎」……水着のパンツはOKなのか? 

「女性専用車の謎」 

「痴漢の謎」 


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2018年3月1日 

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